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2001スナイプ級ワールド参戦記

ワッカー・エヌエスシーイー(株)ヨット部 安部 賢司

11/21

飛行機での移動途中にアメリカの選手ダグ・ハートと偶然にも合流した。(ダグは前回<前前回も>世界選手権3位の選手)彼とはシカゴからいっしょの便で、我々を見つけるなり「日本の選手か?遠い道のりだな。」と話しかけてくれた。そうこうしながら東京から丸2日間の移動を終え現地に到着(会場となったのは、punta del esteという街。ウルグアイの首都mondevideoから東へ150km)。しかしついたのは夕方の5時だった。

現地につくなり2ヶ月前に神戸から輸送した艇の確認を行うためハーバーへ。そこで昨年西半球選手権で友達になったアルゼンチンのノエ、シャパオ、オロカモノ、アメリカのスザボーと出会った。相変わらず彼等は陽気で親しみやすい。それはさておき艇の確認へ。(実はこれが1番心配だった。無事に着いているだろうか?コンテナの中で艇が固定されてなく暴れていないだろうか?そう言う心配だ。)コンテナを開けると私達の艇は無事に無傷で到着していた。

それでは飯でも食いに行くかとレストランに行くが、昨年と同じくこちらのレストランは8時以降にならないとオープンしない。仕方ない。この日以降も夕食は午後9時以降と決まってしまった。

 

11/22

午前中は昨日確認した艇の受取り・艇整備を行った。自艇だと受け取ったらすぐに練習できる。艇の性能も分かるし、艇を最初から作らなくてもいいから。

ハーバーには野生の大きなアザラシがたくさんいる。マリンスポーツと野生の動物達が共存できている素晴らしいハーバーだ。

午後から海上練習。アメリカ・アルゼンチン・スウェーデンと合同練習。海上の波は比較的平水面であった。特別早い奴はいないと感じていた。

宿に帰ると山近が急にスペイン語を勉強し始めた。

 

11/23

この日は午前中だけの練習となった。天気予報で午後から雨と予測されていたからだ。練習の調子はあまり良くなかったが、こういう日もあると、特に考えないようにした。

午後から予測どおり雨だった。雨と言うか嵐。風は吹き荒れ雨は土砂降り、おまけに雷が近所に落ちつづけている。ホテルに避難していたが停電が2時間ほどあり町中真っ暗な時間が続いた。そのせいかこの日は夕食も取らずに夕方から眠った。

 

 

11/24 

大会オフィスがオープンし受付と艇計測が行われた。艇計測とは大会のたびに行われ、使用する艇がルール違反して無いかチェックされる物で、車で言うと車検のようなものである。日本の大会でも同様に行われるのだが、さすがに世界選手権となるとチェックが厳しい。特に日本の艇を持ってきた私達には珍しがり、必要以上にチェックが入った。私達の艇は艇の前の部分を1cm削らないと合格しないと言われ、それに従い削った。この艇計測に1日中掛かり、終わったときにはもう日が落ちようとしていた。(日の入りは午後8時くらいだった)

日本スナイプ協会の山本二郎さんが合流された。

 

11/25

艇計測が昨日中に終った為この日、練習する事が出来た。スウェーデンと合同で練習し比較的調子は良かった。海上の波はこの日も比較的平水面だった。

そしてこの日は、ウルグアイがサッカーのワールドカップ最終予選の日だった。結果はウルグアイが勝ちワールドカップ出場を決めたのだが…。私達はこのおかげで、ホテルから外へ出られなくなってしまう。町中で若者を中心とした国民が大騒ぎをしているのだ。時折銃声も聞こえる。ホテルで怯えていたが、日本のヨットもこれほどメジャーだといいなと思った。

 

11/26

PRACTICE RACE

スタート大失敗。プラクティスで良かった。

日本だと比較的得意な風域なのにやはり世界ではそう簡単には行かない。第1マークは55位/61艇で回航する。その後順位を少しずつ上げるが45位がやっと。明日から攻めのレースをする!と決意を新たにした。

夕方、開会式が行われいよいよ明日から本番のレースが始まる。この時は希望に満ち溢れていた。

 

11/27

1レース

私のスタート大失敗で、今大会を開けてしまった。その後の山近のコース取りに迷惑をかけることになった。完全なドベスタートだったが、山近の冷静なコース取りで第1マーク50位/61位で回航する。その後順位を少しずつ上げ一時は30位まで上げるが、日本では経験できない高く波長の短い波に大苦戦する。フィニッシュは48位。

レース後、山近とミーティングをした。お互い慣れない状況でパニック状態であった事に気づいた。次からエンジョイを忘れず頑張ろうと誓った。

 

11/28

2レース

スタートはベターなスタート。しかし他の選手のボートスピードに着いて行けない。スタート直後第一線からはじき出される。我慢我慢のレースで第1マーク30位。一時、調子の良かった風下航で20位まで順位を上げるが、その後じわじわと順位を落としフィニッシュは38位。第1レースに続き良くない順位。何かがおかしい。

 

3レース

2レースの時もだったが私達のボートスピードは風上航で明らかに遅い。自分達の感覚ではしっかり走れている。では私達より他のチームの技術が上なのか?いやそんなはずはない。昨年の西半球選手権では私のボートスピードは速かった。

1マーク55位どうやってもスピードが上がらない。ヨットレースでスピードがなければ普通の自動車がスポーツカーと競争しているようなものだ。私達の頭は再びパニック。もう破れかぶれの心境の時、コロンビアとケースを起こした。ルール上、私達は非権利艇。私達はジャッジにより失格となった。この瞬間、私の目標総合10位以内は消えた。

 

11/29

何とか流れを変えたい!残り4レース私達のレースをしたい!朝早くハーバーへ行き、艇のチューニングをチェンジした。艇は前日までより速くなったが気休め程度だ。

 

4レース

とにかくやってやるとスタートから意気込んだ。スタートは集団から抜けだしレースの出きる形を作った。その後、何もかもいっぱいいっぱいで、ただ勝ちたい一心で走った。セーリングスタイルも日本式では通じないと彼等の真似をし私達に出きる事全てをした。第1マーク5位、2マーク6位、3マーク4位、4マーク7位、フィニッシュ6位。やっとレースらしいレースが出来た、エンジョイできた。自分たちもやれば出来る。上位の選手と互角に戦える力はある、そう思った。しかしレース終了後、私達のスタートがリコールで2度目の失格になる事を告げられる…。もう何をどうすればいいのか分からない。

 

5レース

レースが始まるまで何とか気持ちを整理したいが、何より先に辛いという気持ちが出てくる。ネガティブな発想が次から次と出てくる。しかし山近の一言で救われる。「もうここまで来たら開き直るしかないでしょう。スタートにしたってさっきと同じように思いっきり行きましょう。それしかないです。」それもそうだな。もう総合順位で後に殆どいないだろう。くよくよしても仕方ない、山近の言うとおりだ。残りのレース悔いが残らないように思いきりやるしかない。

スタートは気持ちとは裏腹に少し出遅れ。だがその後の展開次第では上位も狙える位置。しかし相変わらず風は私達に味方しない。第1マークを30位で回航する。その後は少しずつ順位を落とし43位。気持ちはニュートラルに戻したが成績は…。着順がついただけでも良しとするべきか。

 

11/30

この日はスペアデイ。これまでに予定されたレースが消化できていない場合、この日にレースを行うが、予定全て消化している為休息の日となった。朝遅くまで寝てやろうと思うがいつもどおり六時に目がさめる。身体と頭を休める為、ホテルでゴロゴロ、町をブラブラするがレースの事が頭から離れない。

 

12/1

6レース

スタートまたも出遅れ。元々スタートは得意でない私だが、ここにきてボロが出過ぎだ。凄く速い潮の流れに苦労する。第1マーク20位。2マークも20位。2マークから3マークへ向かう途中、順位を落とした。山近が初めて感情的になり、セールのコントロールロープにあたっている。何をやってもうまく行かない事に、集中力が切れてしまったのか。気持ちは痛いほどわかる。私も切れたいが二人が切れたらどうしようもなくなる。砂を噛むような思いで我慢した。3マーク42位。その後、若干順位を上げて38位でフィニッシュ。

 

第7レース

第7レースが始まる前に、海外チームのコース取り、セーリングについて山近と話し合った。あまりしつこくなるとチームにとってマイナスになる。そこに配慮しながら話した。何故私達は順位を落としたか…何故海外チームに負けるのか…。私達は彼等との違いを最終レースを迎える時になって気づいたような気がする。そしてこのレースはコース取りのスタイルを変え、海外スタイルを真似てやることに決めた。

スタートは今大会で最高のスタート。(第3レースの失格を除けば)第1レグ常にトップ集団と絡んだ展開。しかし私達のボートスピードは今だ劣る。何とか気持ちだけでもと、自艇に叫びながら走った。「走れー!走れー!」と。第1マーク8位。観覧船から『ジャパーン!ゴー!ゴー!ゴー!ゴー!』あの声は、アルゼンチンのソウとアメリカのリサに間違いない。友達というのはいいもんだ。2マーク9位、3マーク9位、3マークから4マークへ行く間スピード差が大きくなる状況になる。4マーク12位、5マーク12位。最終レグまたも苦しい状況。しかし最後になって私達は力を出せたのではないかと思う。今ある状況の中でベストを尽くせたレグだった。フィニッシュは16位。今大会、私達にとって着順の付いたベストスコアだった。

 

閉会式

特に大きな閉会式ではなかった。優勝はブラジルのプロセーラー、アレクサンドロ・パラデラ、2位には昨年の西半球選手権優勝のブラジル、ヴァスコンセロス兄弟、3位はアルゼンチン・ロサリオ・ヨットスクールの指導者ノエ兄弟だった。私達は49位/61チーム。彼等の嬉しそうな姿を見ると羨ましく、私がこの瞬間まで抱いていた辛いという気持ちは吹っ飛んでしまった。と、同時に全力を出しきれなかった自分が悔しかった。

 

12/2

午前中に艇のコンテナ積みを終らせ、午後から海外チームのセーリングに対する考えを教えてもらいに行った。彼等は私が強くなりたいというと、快くいろんな事を教えてくれた。私達には課題がまだまだある事を実感した。今大会3位のノエとユニフォーム交換をした。彼は「このユニフォームこれから高くなるぞ」と言ってきたので、逆に私も「俺のユニフォームもこれから高くなる」といってやった。

 

まとめ〜

この大会中、ある日私は山近にこう言った。『これからのヨットライフ二つに一つだな。次回の世界選手権で上位入賞の為にやるか、今までのスタイルでそれを極め全日本で勝つかどっちかだ。どっちも険しいと思うし、大変な事だ。ただ次回の世界選手権を選ぶ場合はこれまでの活動やスタイル全てをひっくり返す必要があると思う』と。

 私は今大会に出場して日本のヨット会が世界に対して遅れているとつくづく感じた。それは艇や物品などのハード面もそうだが、ヨットに対する考え方や接し方、ソフト面に置いてもそうである。今後この差を縮めていくには、自ら剛の中に入って剛に揉まれていくしかないのだろう。

 

 この世界選手権は私にとって長く辛いものでしたが、閉会式での気持ちを思い出すと私はつくづくヨットバカなんだなと思います。この経験をこれから活かすも殺すもこれからの私達に掛かっています。この経験を元に、これから前向きに確実に前進していきたいと思います。この悔しい思いをしたままにはいられません。非常にわがままで勝手な考えですが、またチャンスがあれば是非、挑戦したいと考えています。常日頃からご理解してくださる方々に、この紙面を通して心よりお礼を申し上げます。