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2000年西半球スナイプ選手権参戦記

ワッカー・エヌエスシーイー(株)ヨット部  安部賢司

9月30日  出発

期待と不安を抱え出発。関西国際空港にて吉岡・池辺組、井田・山崎組と合流。珍道中の幕開けとなった。空路は、関空からアメリカ・ダラス、マイアミ、アルゼンチン・ブエノスアイレスを経由し、レース開催地、ロサリオ市迄30時間という長時間、長距離の移動であった。

 

10月1日  現地到着

ブエノスアイレス空港から国内線の空港まで距離がかなり離れておりその間をタクシーで移動しなければならなかった。次の出発まで時間がほとんど無く、急がなければならなかったので、空港を出たところから私達にやたら親切にしてくれたタクシーの運転手の乗るタクシーに乗る事にした。しかし乗って走り出した時にこのタクシーはニセモノだと気付いた。移動賃を表示するメーターはなく、やたら親切でサッカーの中田を乗せた事があるなど言っていた。(あの中田がこんなボロタクシーに乗るわけなど無い)スピード100キロ近くで町を走り『これはホントにまずいぞ』と思っていたが、結局、誘拐や乱暴される事も無く時間どうりに国内線の空港に連れていってくれた。(しかし運賃は通常の倍以上だった)国内線でロサリオ空港に移動すると、アルゼンチンの代表選手ハビエル・オカリスと地元のクラブ員オスカーが出迎えてくれていた。アルゼンチン時間で午後3時に開催地ロサリオ市のヨットクラブ、club de velas rosaioに到着。到着するなりレストランでパスタ等をごちそうになり、大歓迎のムードであった。夜は、club de velas rosaioのクラブ員チャーリー、へクトール、フローレンシア、コネフォ、ペペ達とアサードパーティー(アサード=アルゼンチンの有名なステーキで、アサードという単語は、焼くという意味らしい。)彼等は日本のヨット人口やヨット具の価格、又、どういう練習方法をしているのかなど、様々な質問を我々に投げかけ、我々もレースエリアの情報をこと細かく質問するという内容の濃いパーティーであった。

 

10月2日

  朝起きて、お腹が空いていた為、朝食を取ろうとクラブのレストランに行ったが営業時間はAM11時からと聞かされ愕然とする。こちらの店の開店時間は全て昼が中心のようで、それまで待つしかない事を知らされる。11時になってやっと朝食が取れる。午後から大会事務局に行きチャーターボートを受け取ろうとするが、忙しすぎて準備がまだ出来てなく、とても引き渡せる状況ではないといわれまた愕然とする。仕方なくクラブのレストランで時間を潰していると、子供たちが覚えたての英語で『あなたは日本人ですか?それとも韓国人ですか?』と聞いてくる。日本人だと答えると、『スペイン語を教えてやるからその代わりに日本語を教えろ』という、英語のほとんど通じない国で困っていた私達は(アルゼンチンの公用語はスペイン語であり、かつてスペインの植民地であった事から文化などもスペインに類似しているという。)、神に救われる思いで子供たちから即席のスペイン語講座に参加し、多くの言葉を学ぶ事になった。(これが後で大変役に立ち、現地の人たちとコミュニケイションを取る大きな武器となった。)そのままクラブで時間潰しをしているとクラブ員が、『電話帳で日系人会というものを見た事が有るぞ。もし必要ならば連絡してやろうか?何かの力になってくれると思うぞ。』と言い出した。私達は素直に連絡をお願いし、夜、日系人会・会長のMr.Nakamatsuに逢い、翌日の夕食を日系人会の方々と取る約束をした。この日から各国の選手が一気に多くなりはじめた。

 

10月3日 

この日もチャーターボートを受取りに大会事務局へ出向いたが、『ボートは渡せない明日以降だ』と言う。少々苛立ちを感じたが、条件は他の選手も同じだと自分に言い聞かせ私達はロサリオ市内を観光。アルゼンチンの国旗完成を記念して建てられた塔などを回り、ダウンタウンにも行って見た。ストリートチルドレンが我々の周りをウロウロしてたが、それを指揮していたのが彼等の親だと気付いてなんとも悲しい気持ちになった。夜になると約束通り私達の宿舎に日系の方が迎えに来てくださり、日系会館へ招かれた。日系人の彼等は終戦直後仕事を求めて、アルゼンチンへ渡ったのだという。彼等は日本の文化を忘れる事無く守ろうと、空手や生け花教室、日本語を2世・3世更に現地の人たちにも熱心に伝えておられた。又、日本の新聞を毎日読まれている様で、日本語が崩れ、徐々に和製英語に変わってきている事や、政治家の汚職などついて、とても心配しておられた。食事は日本食が良かろうと日本食を作って下さった。

 

10月4日  チャーターボート受取り

約束通りにこの日、やっとチャーターボートを受け取る事が出来た。くじでボートを抽選するわけだが、クラブの中で一番速いと言われるボートを当てた。(艇名・ブラックシャドウ 艇番・28726 艇令・8年)整備するよりもまず乗ってみる事にした。日本の船とは全く乗り味が違って上手く乗りこなせない。海上練習に力が入り過ぎ、気が付いたら川の流れに流され、かなり下流まで来てしまった。風も弱くなり、自力で戻る事が出来ずクラブの救助ボートに曳航されての帰航となった。チャーターボートを上手くコントロールすることに対して難しさを感じていると、クラブの人たちが『どうだ、速いだろう』と話し掛けてきた。それがとても辛かった。夕方から夜遅くまで、不具合に感じたところを整備し、セッティングを実施し終えた時に時計の針は午後9時を差していた。夜10時から選手主催のアサードパーティー。ブラジル、ウルグアイ、アルゼンチンの選手達とヨットの話や、各国の生活話で多いに盛り上がった。彼等は日本人と交流できた事を喜んでいた。

 

10月5日

午前中から私達のみセーリング練習。整備の介あってか昨日より数段、船が乗り易くなっていた。夜遅くまで整備した介があった。他の選手は午後から練習しようと考えていたそうだが、午後から風が一気に無くなり、この日練習出来たのは私達1チームだけ。少しリードできたかな。午後から昨日に引き続き艇の整備。夕方から運営サイドの艇計測を実施。セール計測も同時に行い、他チームより1日2日早くレースに対する準備が整った。

 

10月6日  情報収集

この日の朝から風が無く、セーリング練習が出来ない状態。私達は艇の点検及びセッティングに没頭する。午後から私達のチャーターボートのオーナー、ソウ(あだ名である。ホントの名前はザバルア。)達とレースエリアヘ大型クルーザーでクルージング。ヨットを始めて13年になるが、実はクルーザーに乗ったのは、これが始めて。大変感激しアメリカズカップもいいかな?と余計な事を考えてしまった。レースエリアにつくと、風の情報や、風のシフトパターン、川の流れの強弱等について2時間くらい教えてもらった。ソウはとても親切だがあまり頭が良くなさそうだ。一見ギャングのような彼の会話はヨットかエッチな話だけ。緻密な計算よりフィーリングだけで走る選手のようだ。それに比べ彼のクルー・ペチナリはとても繊細でクレバー、日本人に考え方が良く似ている気がした。この2人が一緒のチームとして組んでいる事に不思議さを感じた。ソウはクラブの中でもリーダー格で、彼の周りにはいつも沢山の仲間がいた。彼の明るくずぼらな人柄が、周りを惹きつけているのだろう。夜になるとまた、アサードパーティー。この日は地元ラジオ局のDJイズサンドロの誕生日で、バースデイプレゼントに日本の曲の入ったカセットテープを送った。彼は大変喜んでくれた。

 

10月7日  受付と計測

 

10月8日  開会式

とうとう待ちに待った西半球選手権が開幕。と言ってもこの日は開会式だけ。日本のレースより日程がとてもルーズで選手の力がもっとも発揮され易い様に組まれている。開会式では、この日迄積極的、友好的にいろんな人と接してきたのが良かったのか、私達は大人気。日本人が入場すると大歓声とスタンディングオベイション。開会式はとても盛大で、あの雰囲気は日本ではどんな事をしても出せないであろう。これを味わっただけでも来た介が有ったと思える。言葉では表現できないのがとても残念だ。開会式後のショーでアルゼンチンタンゴ等を拝見した。とても情熱的であった。それに対してアルゼンチン国歌がとても長く、暗い音楽で倒れそうになった。

 

10月9日  第1・2レース

レース開幕。この日を待っていたかのように、強い南風が吹き荒れていた。私達もそうだが、他国の選手に昨日までの優しい顔はない。

第1レース 風速16m/sec

日本ではこの風域でのレースは不可能。あっちこっちで船と船の衝突が起き、人命第一の為、運営サイドもレスキューに追われてしまうからだ。それに比べさすが各国の代表選手。そんなトラブルは起こらない。スタートをそつ無くこなした私達は、心配していたスピードも外国勢に劣る事無く第1マーク15位で回航。風下航のスピードが抜群で、第3マークを5位で回航。『これはいける』と思ったが、その後マーク回航を重ねる毎に少しずつ順位を落しフィニッシュは12位だった。日本だと比較的得意な風と展開なのにやはり世界はそう簡単にはいかないなと感じた。

第2レース 風速18m/sec

スタートでやや出遅れたが、スピードだけは相変わらず速く、第1マークを15位で回航。これだけ風が強いと人の技術が優れていても船の能力が限界で、マストが折れたり、舵が真っ二つに折れたり、艇のハルとデッキが剥がれたりでレース中盤からサバイバルレースの様子になってきた。その中私達は、マーク回航毎に1艇づつかわし第5マーク回航時には10位まで順位を上げたが、最終レグ勝負に出た3艇にやられフィニッシュ13位となった。完走できたのは3分の2程度のチームでまさにサバイバルであった。初日を終えて総合10位。まずまずのポジションだと思っていた。第1レースと第2レースの間に食事時間があり、その時間参加艇全てが風を避ける為、近くのマリーナへ、風除けに入っていく姿は何故か、不思議とヨットが風を避ける鳥のように見えた。

 

10月10日  第3.4レース(延期)

予定では、この日第3.第4レースが行われる事になっていたが、朝から北の風が弱い。といっても風速5m/sec位はある。だが川の流れと風向が同じであった為、川面風速は2m/sec位になってしまう。(川の流れの速さは3m/sec)レース運営サイドの判断は早く、午前11時にはこの日のレース全てを10日以降に延期する事を決定した。連日のパーティーと前日の強風で疲れが蓄積していた私達には恵みの休日となり、この日を軽い艇整備と体を休ませる事に使った。

 

10月11日  第3.4レース

この日も朝から北の風が弱く前日と風向・風速共変わらなかったが、選手のやる気がレース運営を動かした。レース運営が動く前に選手が次々とハーバーから出艇しレースエリアへと向かっていったのだ。体重の軽い私達のチームには風が弱いほうが有利なので、今日のレースで一気にポジション、ジャンプアップを狙っていた。

3レース。風速7m/sec(川の流れをひくと風速4m/sec)

スタートは今大会でベストスタート。下1から即タック。流れの弱い右エリアでのレース展開を狙っていた。しかし想像していた以上に川の流れの影響を受け、思う展開に持っていけない。外国勢は私達の2倍以上のタック数を行ない、とてもタクティカルなレースを展開していた。第1マーク28位で回航。後ろには2艇しかおらず頭が変になりそうになったが、2艇のうち1艇が他の日本チームであった事で少しホッとした。結構前と離れていたので、挽回は難しいかと考えていたのだが、フィニッシュ時には19位まで挽回する事が出来た。また少しホッとした。

第4レース。風速6m/sec(川の流れをひくと風速3m/sec)

さっきのお返しとばかり気合いが入っていた私達は、このレースのスタートも下1からグッドスタート。第1レグ中盤ではトップに立ち『来たぞ!』と考えていた。しかし第1レグ終盤で反対集団が延びて、トップではなくなった。しかし今後の展開次第でトップは取り返せる位置。その位置をキープするには次のタックは絶対に失敗できなかった。そして運命のタック…。クルー落水…。クルーの吉田も相当緊張していたのだろう。それほど切羽詰った展開で大事なタックだった。吉田も最高のタックをしようとして失敗したのだから仕方ない。順位を落としたがそれでも第1マーク 7位で回航。以後順調にレース展開をこなし、最終マークを同じく7位で回航するはずだった。最終マークを回り始めた時、ポールランチャーのトラブル発生。落ち着いて対処していれば、そんなに順位を落す事無かったが、慌てふためいた私達はわれを失い本来の力を出せず、フィニッシュ時には最後尾となってしまった。ヨットを始めて13年になるがドべは初めてで酷く落ち込んだが、二人で良く話し合い『前向きに行こう』と決意を新たにする事が出来た。ハーバーに帰るとレース中盤まで近くにいた他チームの選手オロカモノ(私達が付けたあだ名。ホントの名前は知らない。Jrワールドチャンピオンらしい。)が私によってきて『落ち込むなよ。お前達は速いよ。ただ運が悪かっただけだ。Don‘t Worry』と励ましに来た。『もう大丈夫だ。次は負けないぞ。』と私は言った。

 

10月12日  LAY DAY  大会再準備日 (コロンブス 大陸発見記念日)

レースが無い事を知っていたので私達は朝遅くまで寝ていたら、クラブの事務員アリーシャ(怒りっぽいお姉さん)が『早く起きなさいバスが出るわよ。』と言う。寝ぼけた状態で私達3チームは『何の?今日ぐらい寝かせてくれよ。』と返した。『いいから早くしなさい。今日はバスで市内観光と書いてあったでしょう。』とまた怒っている。しょうがなく言われるままにバス乗り場へ行くと選手全員バスに乗っていて、知らなかったのは私達だけだったらしい。朝飯も取らず運営サイドが準備した観光バスに乗って、ロサリオ市長に選手全員が挨拶に行った。ロサリオ市長が選手全員をロサリオの名誉市民としてくださった?スペイン語で言われたので良く分からないが、多分そうだと思う。ロサリオのバッヂをくれたし。でも空腹状態で、長話を聞くのはつらく、開会式のアルゼンチン国家同様に、ここでも倒れそうになった。市長への挨拶が終ると、再びバスに乗って牧場へ案内される。その牧場でアサードパーティーを用意しているらしい。『またアサードか。』と思ったが、『とにかくおなかに何か入れないと。』と思い我慢する事にした。牧場でのアサードは他で食べるよりおいしく感じた。(活きがいいから?それとも景色?)料理も終盤に近づくと日本人を中心としたワイン一気のみ大会が始まる。外国人は最初この雰囲気に呆気に取られていたが、その内俺らも負けるかとばかりに飲み始めた。その雰囲気は日本の居酒屋と同じで、2.3人芝生の上で倒れていた。一気のみ大会が終ると、今度はアルゼンチン人が国別に分かれてミニワールドカップ(サッカー)しようと言い出した。日本人は『阿呆か、お前。今酒飲んだばかりだぞ。』と言っても、サッカー好きの外国人は辞める気配はない。仕方なく半分千鳥足の状態でサッカーする事に。日本・アメリカ合同チームは、初戦、ゲイのファビーニ率いるウルグアイチームと対戦する事になった。結果は3-2でウルグアイチームの勝ち。彼等の運動量に負けたと言う感じだった。結局優勝は地元アルゼンチン。彼等の身体能力には驚かされるものがあった。

 

10月13日 第5.6.7レース

 当初の予定では、この日は2レースの予定だったが、レースを消化できていないと言う事で、3レース続けてやる事になった。風は南の風。第1.2レースに比べると弱いが、10m/sec位はゆうに有る。

 第5レース 風速10m/sec

 スタートが上手く出来ず、失敗スタート。それでも必死に食い下がり第1マーク15番で回航。(15番が私達の定位置なのか?)フィニッシュもほぼそれくらいだったと思う。

 第6レース 風速7m/sec

 前回の失敗スタートの原因は、川の流れの速さを計算できてなかった事に有り、このレースでも読み切りに自信がなかった。そこで私達の取った作戦は、スタートの上手い奴の動きに合わして行くと言う作戦に出た。で、スタート第5レースよりはいいスタートが出来たが、グッドスタートとは言える程でなかった。第1マーク15番くらいで回航。この中位集団に日本チームが密集していた。(昨年の全日本選手権での上位5チームがこの西半球選手権に参加している)この付近だけは、どの日本人もこの中だけでも1番になりたい、このレースだけはこの5チームの中で1番になりたいと思っていたに違いない。日本であったならドラマになるような大接戦で抜きつ抜かれつの名勝負。フィニッシュは、吉岡・池辺組(東洋紡績)、安部・吉田組(ニッテツ電子)、井田・山崎組(島津製作所)、森田・瀬戸口組(ホンダ)、高村・丸山組(ホンダ)の順であった。5チームともこのレース後、妙に満足げで楽しそうであった。しかし総合順位は…。

 第7レース 風速9m/sec

 泣いても笑ってもこのレースが最後。もうこのレベルの高いレースを味わう事は出来ない。相当の緊張感からかスタートは今大会の中で最悪のバッドスタート。ああもう終わりか。と一瞬思ったが、クルーの吉田が非常に冷静で最高のコース引きを見せてくれた。(いつもこれが出来ていたら…。)完全なドべスタートだったのに第1マーク5位から7位の間で回航。風下航で1艇かわし、第2マークをおそらく6位で回航。この大会通して風下航は外国選手に比べても全く速く自信を持って集中し走らせる事が出来た。第3マーク日本の森田・瀬戸口組、アメリカチームに抜かれ8位で回航。第4マーク森田・瀬戸口組を再び抜き返し7位で回航。残るマークは後一つ。この時の私達の望みは、せめて一回10番以内でフィニッシュしたいという事のみで、それだけに執着しレース展開も手堅くこなしていた。しかし神様が最後にいたずらをしてみせた。私達の前をさっきまでまるで後方を走っていたチームが4艇も横切る。またそのチーム達は、チャンスとばかりに手堅いレースを私達に対して行った。私はキツネにでもつままれている気分であった。結局フィニッシュは11位。今大会の最高フィニッシュ順位であったが、チョットやるせない気分であった。多分神様が私達に新しい課題を与えてくれたのだろう。そう思う事にした。

 

10月14日 閉会式

  閉会式は夕方から始まる為、私達3チームはチャーターボートを返却する為の整備する事にした。整備中に地元の子供たちが集まってき、サインしてくれと言う。(日本では考えられない光景だが、アルゼンチンでヨットはメジャースポーツである為これが普通らしい。)1人の子にサインすると気付いた時には、周り中、子供だらけでサインをねだってくる。ちょっと気分を良くした私達にレースの最終順位の報告が入った。結果は30チーム中17位。日本チームの中では5チーム中3位。満足というには満たないけど、精一杯やったという充実感は有った。閉会式は開会式同様、盛大に行われ、入賞した人、それ以外の人にも同様に賞賛が送られた。17位の私達にも大声援をくれ、また充実感を味わった。

 

10月15日 ロサリオ出発

この日もチャーターボートを返す為の艇整備。午前中には方をつけ、正午過ぎの飛行機に乗ることになっていた。最後のお別れを言いにレストランのマリオ、パメラ、オカリス、オーナーに会いにいった。彼らはとても寂しそうにしてくれ、それを見て私たちも寂しくなった。レストランでほぼ毎日朝昼晩食事を取っていた私たちに、『お前達米が食いたいだろう。どんなのでもいいから注文しろ、作ってやる。』といってくれ、焼き飯風の料理を作ってくれたことや、朝早い私達に開店時間を合わせてくれたことなどを思い出し、少々のことでは感動しない私も少しまぶたが熱くなった。午後の飛行機でロサリオからブエノスアイレスへ移動した。

 

10月16日 アルゼンチン発

飛行機の時間が夜の10時だったので1日中ブエノスアイレスを観光した。大統領宅やサッカーの強いチームのスタジアムに観光バスに乗って案内してもらったが、移動中はさすがに全員疲れていて眠っていた。街を歩きショッピングなどをしたが、皆疲れで会話もない状態であった。夜とうとうアルゼンチンを離れる時間になりやっと帰れる事と、今から始まる32時間のフライトを考えると嬉しいのやら良く分からない気持ちであった。とうとう出発し機内の中では誰も口を開かずただテレビ画面をボーっと見つめていた。それほど疲れていた。

 

10月18日

日本についたのは午後3時過ぎ。遠征を共にした吉岡・池辺組、井田・山崎組と空港で分かれた。新幹線で徳山まで移動したがその間、吉田とも会話はなく、ただお互いにこれからのことを考えていたのだろう…。また挑戦するために。

 

 


~2000年西半球スナイプ級選手権を終えて~

ワッカー・エヌエスシーイー(株)ヨット部 安部 賢司

              

今回、西半球選手権に出場することが出来、私にとってヨットの事、又、それ以外のことにおいて、非常に大きな財産となりました。それも皆様のご理解とご支援があってはじめて実現できたものだと深く感謝しています。この財産をこれから世界を目指すであろう若い世代に、職場内の同僚達に、又、それ以外の方々にも伝えていきたいと考えています。

今回の西半球選手権では17位と成績は振るいませんでしたが、私の感想として、世界と私達の差はあまりないと感じました。確かな手応えも感じました。スピードなんかは私達のほうが速い場面が多々あったと思います。しかし、負けている部分は確かに有ります。今回感じた負けている部分を素直に受け止め、今後の練習に生かしていけば、おのずと世界は近づいてくると思います。(それプラス何かが必要だと思いますが)

私が今回の遠征でもっとも深く感じたのは、今まで私は、『自分自身がヨット活動において納得していれば誰に何を思われてもいい』という考え方だったのですが、この西半球選手権を経験して、自分だけが納得しているレベルでは駄目だと感じました。それは技術的なものも、それ以外のものに置き換えてもそうだと思います。さまざまな方のお力添えがあって今の私達があるわけで、所詮ただ一人のセイラーには超えられない限界があります。今後、これを肝に銘じもっともっと大きな事にチャレンジしていき、いろんな人を味方に引き付け、人の心を熱くする、そんなセイラーになれるよう努力していく決意であります

 私の今後の目標は、次回2002年アメリカ・ロングビーチで開催される西半球選手権で上位入賞することです。それまでにいくつもの予選を通過していかなければなりませんが、目標を本当の意味で明確に持ったことは久しぶりで、自分自身楽しみに感じています。

これからも変わらぬご指導ご鞭撻をよろしくお願いいたします。

                                 以上

追伸(今後の重要なレースを下記に記します)

次回西半球選手権に出場するには

2001年地区予選 8月に鳥取県境港市で開催される

               中国スナイプ選手権5位以内で予選通過                    

                    

2001年国予選 11月に同じく鳥取県境港市で開催される

            全日本スナイプ選手権5位以内で西半球選手権出場

以上